ボンネビルが納車されてから1か月と約半月。
納車したときに初回点検の予約を7月18日に入れておいた。1か月半もあれば慣らし運転の目安の1000Kmも走るだろうと思っていたが、梅雨時で週末が雨の日も多く、実際はそれほど乗れる機会は多くなかった。
最近は、ディーラーのピットも混んでいるのか、作業効率をよくするためなのか、事前予約が必須となっているようだ。飛び込みで点検や修理が頼めないこともある。
点検前の走行距離は700Km。
「あと300Kmか。ちょいと休みを取って走りに行くか」
この時期は仕事もそれほど忙しくないので、16日の金曜日に1日休みを取って、1泊2日で慣らし完了ツーリングに出かけることにした。
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奥飛騨温泉郷の新穂高に宿を取って、ルートはアバウトにしか決めてない。当日の天候は晴れ。どうやら梅雨が明けたようだ。
田舎のバス停のベンチを少し拝借して水分補給。日差しで暑いのもあるが、ボンネビルのエンジンから発せられる熱量が半端ないのよ。股の下にファンヒーター挟んで走っているみたい。夏場はときどきクールダウンしないと熱中症になりそうだ。
選んだルートは御嶽の脇を通って高山に抜ける国道361号線。最後にSRで走った高原の快走路。「SRからボンネビルとの引き継ぎにまたこの道を走ろう」。ボンネビル最初のロングツーリングにそれがふさわしいと思った。
少しずつ標高を上げてたどり着く開田高原。
開田高原の道は、夏でも涼しく晴れていれば清々しい風を浴びることができる。何度でも走りたくなる道。こんなとき、やっぱりオートバイはネイキッドがいいと実感する。
ガードレールが木製なのもいい。いくら気持ちのいい道でも、あの白いガードレールって無味乾燥な感じがして景色を台無しにするんだよね。もちろんいろんな意味で大事なのはわかるけど・・・
いつものビュースポットに立ち寄り、しばらく山容を眺めて御嶽を堪能する。
途中で買っておいたフィッシュバーガーで昼食。ソロだと、お店に入るのもなんとなく面倒くさいので最近はこのスタイルが多い。景色のよいところで食べれば何でもウマいんだよ。
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このまま、国道361号線で高山市内を抜けて、国道158号線で丹生川経由で平湯まで出て国道471号線に入って新穂高まで行くのがメジャールート。
その途中でなんとなく目に入った「野麦峠」の標識。
野麦峠は映画の舞台にもなった有名な峠だ。この道を走るとき、いつかこの峠を越えてみたいと思っていたが、日帰りだと随分と遠回りになるのでなかなか走る機会が得られなかった。
アタマの中のナビゲーションが瞬時にルート検索する。県内の大体の道はアタマの中にインストール済だ。
「せっかくだから野麦峠を越えて、奈川経由で158号線に出て、安房トンネル抜けて平湯に行こう」
国道361号線から右折して県道39号線に進む。地図で見るとこんな感じだ。
しばらく行くと小さな集落があり、その先の道の向こうに乗鞍岳が見えてくる。
頂上付近には、まだ雪渓が残っているのがわかる。
野麦という集落には、廃校になった小学校の校舎が残っていて、以前は食事や宿泊もできたみたいだが、中を覗くと誰も居ないどころかモノが乱雑に積み上がって、もうずいぶん前から使われていないようだ。
「野麦峠」と言えば多くの人が名前くらいは知っていても、どこにあるのか知らない人も多いだろう。映画「ああ野麦峠」が公開されたのは40年も前のことだ。今や興味をもってわざわざ訪ねてくる人も少ないだろうな。
野麦峠に向かう道は細くクネクネと折れ曲がり、とても攻めた走りをできるような道ではないので慎重に走っていく。ところどころ水が流れていたり、落石や砂が浮いているところもある。日常あまり使われることのない道のようだ。
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峠の到達地点にに資料館があったので寄ってみた。
窓口に人影はなく、無料開放していると張り紙があった。
入口には、当時この峠を越えて行った少女たちの衣装を纏った人形が出迎える。ちょっと微妙なたたずまい。
ずいぶん昔にテレビで見た記憶が・・・
「ああ野麦峠」は、昭和43年(1968)朝日新聞社から出された山本茂実のルポルタ-ジュ。製糸工場の女工さんだった明治生まれのお年寄り達に、聞き取り調査したものを本にまとめた。故郷を前に野麦峠で死んだ若き製糸工女みね。富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、戦後ノンフィクションの名作!
明治から大正にかけて、外貨を稼ぐ手だては、生糸でした。養蚕が日本を支えていた時代、その陰では10代、20代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。
諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。
(以下 ああ野麦峠より抜粋)
工場づとめは監獄づとめ
金のくさりがないばかり籠の鳥より監獄よりも
製糸づとめはなおつらい
出典:ああ野麦峠
「アー飛騨が見える、飛騨が見える」といって力尽きた主人公のみねのシーンは結構鮮明に覚えている。泣けた(ToT)
当時の少女たちを描いた絵が飾られていた。まだ子どもなのに過酷な運命を生きた。
彼女たちが飛騨から長野県の岡谷まで歩いた道のり。かなりの距離だ。11歳~13歳の子どもたちが、この道のりを簡素な出で立ちで歩いていたなんて。命を落とすことも少なくなかったとか。
藁の靴(?)の下は足袋だったよう。雪深い峠越えで彼女たちの足は凍えてパンパンに膨れ上がったようだ。
原作は読んだことがないが、今度読んでみよう。その情景が少しは見えてくるかもしれない。
映画も改めて見てみたい。主演は大竹しのぶだった。
NHKで当時の様子を解説している動画が視聴できる。
たった100年ちょっと生まれた時代が違うだけで暮らしぶりは大きく違う。当時の女性の人権はないに等しい。
たった100年。大きな時間の流れから見れば誤差みたいなもんだ。生まれた時代、生まれた場所、生まれた家・・・ちょっとした違いで人生を歩む道は大きく違ってくる。現代の日本人の多くは戦争も知らず、物質的豊かさも享受している。考えさせられる峠越えだった。
自分はなぜか若い頃から山村漁村の昔の暮らしに惹かれてしまう。民俗学的な関心もあるが、そんな大それた学術的な意味合いではない。都会に生まれて、不自由なく育った自分にとって、当時の山村漁村の人たちは、なぜ、敢えて過酷な環境の中に身を置き、何を思い暮らしてきたのだろうという純粋で素朴な疑問から。その土地に立ち、その土地の空気を吸って、当時に想いを馳せ、空想する時間が旅の目的になることもある。当時の暮らしに関心を寄せ、時間を超えて寄り添うことで今の時代の意味を感じることができるような気がするからだ。
野麦峠の地に立っていると、もう、うんざりしていたコロナもオリンピックも無縁の世界だった。
一方で野麦峠を越えて奈川の街に入った途端に、普通の暮らしの匂いがして少しホッとした自分がいたのも事実だ。
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本日の宿泊地である新穂高温泉に到着。
宿は、「ホテル穂高」。ロープウェイ乗り場のすぐ近く。いつもはこのホテルの前を通り過ぎて北アルプスの山に入って行く。山岳リゾートを思わせる外観に「いつかは泊まってみたいな」と思っていたホテルだ。
バイクは玄関先の屋根の下に止めさせてくれた。
趣のあるロビー。新しくはないが歴史を感じる雰囲気だ。
ダブルの部屋をシングルユースで。ソファーはロッキングチェアになっていて、外の景色を眺めながらゆったり。ただ、部屋は道路側だった。出来れば反対側の川の流れとアルプスが望める部屋がよかったけど。ちょっと期待外れ。
さて、気を取り直して温泉にでも浸かるか。
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