旅のスタイル
自分にとって旅は移動だ。バイクやクルマで街から街、目的地から目的地まで、景色のよい道やワインディングを、まるで点と点を線で結ぶように走り抜けるスタイルだ。観光名所や景勝地を巡るのは「中継地にして休憩する」みたいなところがある。
ただ、そういう旅というのは街を通り過ぎるか寝るだけで、その街を散策したり、その土地の暮らしや文化を知るには向かないスタイル。自分も歳をとってきて、点と点を線で結ぶ旅のスタイルにちょっと疲れを感じるようになった。今回は石見銀山や萩の街を巡ってみたいという思いから旅に出たので、ある程度旅の日程に余裕が欲しい。
前回の記事はこちら ↓
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萩の温泉旅館で連泊
石見銀山を昼過ぎに出て萩の街には夕方に着いた。もし翌日に出発してしまうのであれば、せいぜい午前中に街を散策する程度。それでは、歴史ある萩の街をゆっくり巡ることができない。
それにここまで来て改めて思ったが、東海地方から萩へはとても行きにくい。飛行機は使えない、鉄道も新幹線と在来線を乗り継いでいかなければならない。クルマで行くには距離もある。時間的にも金銭的にも気軽に再訪できる場所ではない。
そこで、今回は萩の街を見下ろす高台にある温泉旅館に2泊予約を入れた。連泊だ!
泊まったのは「萩本陣」
温泉旅館は、大抵2人からしか泊まれないところが多いが、ここは夕食なしの朝食付きで一人から泊まれるプランがある。この時は月曜日の平日で1泊7800円とリーズナブル。
チェックインして部屋に入ると・・・
街側を見下ろす10畳の部屋だった。こんな広い部屋をひとりで使わせてくれるなんて。贅沢だ。
コロナのこともあって、宿泊客はあまり多くない。お風呂に行くと工夫を凝らした浴槽がいくつもあって客は自分一人だけ。広い浴槽を独り占めして中庭の庭園を眺めながら入る温泉はなんて気持ちがいいんだ。キャンプもいいが、こんな旅もいい。
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松下村塾
翌日。
豪華な朝食をいただいて(普段の晩飯より豪華だよ。だから温泉旅館の朝ごはんって好きだ)、まずはホテルから歩いていける松陰神社へ。
この境内の中に松下村塾(しょうかそんじゅく)がある。間違っても「まつしたそんじゅく」と読んではいけない。萩の人の前で言ったら確実にアタマをひっぱたかれる。「ちゃうわー」って(笑)
ちなみに萩の街の人は吉田松陰を今でも「先生」と呼んで敬っている。後で訪ねる藩校(明倫学舎)を起源にもつ明倫小学校では、今でも吉田松陰の教えを暗唱しているそうだ。
この狭い8畳の部屋が講義室。ここから幕末・明治維新を駆け抜けた若者たちが多数輩出された。
書き出すと切りがないので興味のある方は「松下村塾」で検索してください。
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千円札の人ー伊藤博文
松陰神社から5分ぐらい歩いたところに、伊藤博文の生家と東京の家の一部を移築した別邸がある。
昭和生まれの同年代の方なら「千円札の人」という印象が強く残っていないだろうか。今でもなんとなく千円札と言えば伊藤博文を思い浮かべる。
残念ながら生家は修繕中で見ることはできなかった。
チラッと直しているところを覗いたけど、リフォーム中の工事現場(笑)
こちらが一部移築された東京の別邸。
別邸は、伊藤博文が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村(現:東京都品川区)に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向って右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大なものでした。
萩市へは往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築しています。明治時代の宮大工伊藤万作の手によるもので、樹齢約1000年の吉野杉を使った大広間の鏡天井や、離れ座敷の節天井など、非常に意匠に優れています。
基本的に、萩市内の古い屋敷や有名人ゆかりの家は、入り口で100円の募金? 協力金?を求められる。
伊藤博文という人物
伊藤博文について聞かれれば「初代内閣総理大臣」「初代韓国総監」「ハルビンで朝鮮人に暗殺される」ぐらいしか思い浮かばない。
訪ねたとき、案内のボランティアさん以外は誰もいない。とても静かで落ち着く。建物の由来や展示物に関する説明を聞いた後、居間のようなところに行くと丸テーブルがあり、書籍や資料が置かれている。壁には伊藤に関する様々なパネル。
一冊の本を開いてみると、「そういえばこの人物のこと全然知らないわ」と座り込んで本を読み出してしまった・・・自分が学生の頃、日本史で近代史ってあんまり教えてもらった記憶がない。寝ていたかのかな? いや縄文と弥生、大化の改新(イルカって名前?と笑ってた)、平城、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸までは時間を取って丁寧に教えてもらったような気がする(あまり覚えてないけど)。
だから近代史時間切れ(笑)
大河ドラマで知ることになる・・・
おじいちゃんのイメージしかない伊藤博文だが、もちろん若い頃がある。なかなか勝ち気そうな青年。
武士の出だと思ったら、現在の山口県光市で貧しい農家の長男として生まれて、父親が破産し・・・父親が萩の足軽の養子となって伊藤と名乗り・・・・家族ともども伊藤家?(改めてウィキペディア読むと複雑過ぎて理解不能)。とにかく「一家総出で足軽の養子?」。後の総理大臣の話だ。もし、これが現代の話だったらYahoo!ニュースで盛り上がること間違いなし(爆)
松下村塾に通い、攘夷運動に傾倒しイギリス公使館を焼討ちしておきながらの・・・・
まさかのイギリス留学! 変わり身が早い。
その時代背景はこちら ↓ 知っていたり興味なかったら飛ばしてください。
1853年、ペリー提督率いる黒船の来航によって、200年以上にわたって鎖国を続けてきた日本は開国を強いられました。それから10年間、幕府の混乱に乗じて列強各国から不平等条約を押しつけられ、さらなる開港を求める外圧にさらされていた日本では、外国を排斥しようとする攘夷思想が燃え上がります。1862年に薩摩藩の行列を横切った英国人を斬りつけた生麦事件、1863年には長州藩士による英国公使館焼き討ち事件が起こるなど、西欧列強対日本という全面戦争の恐れが高まっていったのです。
当時、幕府が締結した不平等条約の破棄と強硬な攘夷を唱える急先鋒が長州藩でした。しかしアヘン戦争以来、強大な清国でさえ列強に蹂躙されていたことから、同藩は攘夷を成功させるには敵である西欧の文明技術を学ばなくてはならないと考え、ヨーロッパへの留学生派遣が検討されます。しかし当時は幕府によって海外渡航が禁じられていたため、それは密航という形を取らざるを得ませんでした。そして長州藩からその内命を受けたのは、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助、そしてわずか半年前には英国公使館焼き討ち事件に加わっていた伊藤博文と井上馨の5名。彼らは1863年5月に横浜を出港し、11月にロンドンに到着します。この5人の留学生をUCL で迎え入れてくれたのが、アレクサンダー・ウィリアムソン教授でした。彼らは同教授の分析化学の講義を聴講したりするなど、UCL で様々な学問に接します。しかし翌1864年4月、急進的な攘夷派の長州藩に対して列強4カ国が攻撃を準備していると知った5人は、相談して伊藤と井上馨を帰国させることにしました。2人は帰国後、列強と戦うことの無謀さを藩に説得しようとしたものの失敗し、1864年8月の下関戦争で長州藩は惨敗。これによって同藩は、攘夷から開国へと姿勢を転換していきます。
出典:長州ファイブと薩摩スチューデント - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、ロンドン・イギリス情報誌 - 英国ニュースダイジェスト
大国の清がアヘン戦争でやられてるの知って、最先端の技術を持った欧米列強には敵わないと悟ったらしい。なんせ長州藩はイギリス・フランス・オランダ・アメリカに喧嘩売ってフルボッコにされてる(下関戦争)。その計画をロンドンで聞いた伊藤は止めようと井上馨と帰国するけど時すでに遅し(飛行機でパッと帰れるわけではないからね)。今でこそ「なぜそんな無謀する?」って思うけど、無知というのは怖いものであり、怖いもの知らずだ。そのあとも第二次世界大戦で同じことやらかす。ニッポンなぜ・・・
現代でもそういう気質あるけど、本当に精神論で突き進む癖はどうにかしなければならない(自分もそういう気質あるの認める)。
なんと最初に総理大臣になったのは44歳。今の自分より年下。若いよね。新政府でまわりもみんな若かったのだろう。
2回目が54歳だから今の自分とほぼ同じ。やたら貫禄ある。
幕末や明治、大正、昭和初期の歴史を興味をもって知れば知るほど、「ああ、だから日本は戦争に負けて、今でも敗戦国としての国際的地位に甘んじているんだ」と、アメリカやヨーロッパの策略と日本に対する搾取的で侮蔑的な扱いが腑に落ちる。別に自分は右にも左にも偏った思想の持ち主ではないが、もう少し近代史にコミットして、日本国民として共通の(自虐史ではない)正しい歴史観と外国、特にアメリカとヨーロッパの本当の姿を教えるべきだと思う。でないとヨーロッパやアメリカとの付き合い方を変えることはできない。
ヨーロッパの国々やそれを祖先にもつアメリカにしても、有史以来略奪や戦争を繰り返し決して褒められたような国々ではないし、やり方は百戦錬磨だ。ちなみに国連は国際平和のための機関ではなく「戦勝国クラブ」ということも学校では教えてはくれないし、未だ日本が国連の敵国条項に該当する国であることも知らない人が多い。
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伊藤博文別邸は、萩のまちの中に溶け込むように建っている。その窓から見える眺めは時代が交錯しているようだった。
まだまだ続きそう・・・これでも午前中がおわってないから(汗)