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結婚記念日に改めて気づく「家族」の意味と社会システムのバグに思う

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昨日は結婚記念日で、家族4人でささやかながらレンストランで食事をした。

 

結婚してから26年。

 

大学を1年留年した息子はアパートを引き上げて帰ってきたが、最後の学生生活を謳歌しているようで、一回出て行くと3~4日は帰ってこない。娘も部活で何かと忙しいので、最近は、家族4人が揃うことも少なくなったから久しぶりに家族揃っての外食だ。

 

カミさんが「独身時代より結婚生活の方が長くなった」というから「23歳で結婚したから3年前に結婚生活の方が長くなったんじゃないの。むしろオレの方だよ。ちょうど独身と結婚生活が半々だ」と返すと、息子や娘が「お母さん、それいま言う? 気づくの遅くない?」と大笑いしてカミさんに突っ込みを入れていた。

 

子どもが小さい頃は、外食するのも「家族サービス」的な義務感があって、おまけに大声出すなとか、ごはんをこぼすなとか、フラフラ歩き回るなとか注意ばかりしていたので、自分自身が楽しむ余裕などない。

 

いまは会話を楽しみながらリラックスして食事を楽しむことができる。むしろ「飲み過ぎ」だと、こちらが娘から注意されるぐらいだ。息子も成人して一緒にビールを飲むようになった。

 

息子と8歳年の離れた娘も高校生になり、息子と同じ高校に進学し、サッカー部だったお兄ちゃんの影響なのか、娘もサッカー部のマネージャーになったもんだから、なにかと共通の話題も多くなり話がはずむ。

 

こんな日が来るなんて。幸せをしみじみと思う。

 

*  *  *

 

お袋が2年前に亡くなって、親父も80歳を超えた。昔、自分が育ち属していた「家族」がもう揃うことはない。カミさんもお義父さんはずいぶん前に亡くなっている。

 

「人」にとって家族というのは、だんだんと増えていって、年月とともに次第に一人、二人と減っていって、最後には誰もいなくなる。当たり前だけど普段意識することはあまりない。

 

改めて考えれば寂しいが、でも、いま、自分には自分の家族があってカミさんや息子や娘たちがいる。大変なこともあったけど(三行半の危機は数知れず)、今思えばこの時のために働いて、家族を養ってきたんだということがはっきりする。だから自分が生まれ育った家族がそろそろ終わりの時期に差し掛かってきても、その寂しさは埋め合わせできる。

 

人類、と言っては大袈裟な気もするが、人間社会の循環と構造は、ごくごく単純化してしまえば、若い男女が出会い、結婚して、家族が増えて、やがて子どもたちが独立してそれぞれの新しい家族を作って、そして親の役目を終えた人は多少の余生を送って死んでいく。この繰り返しの集合体だ。人間も生物である以上、そういうエコシステムに組み込まれている。

 

でも日本では、そういう人のライフサイクルが変わりはじめた。晩婚化と非婚化だ。

 

ほんの少し前、明治とか大正、昭和のはじめまでは、結婚に自由も選択もなかった。親が決めた相手と結婚するというのが当たり前でお見合い結婚が主流だった。恋愛結婚、すなわち自分の意思で相手を選び結婚するようになったのはいつ頃なのだろうか? 調べてみると1970年あたりから恋愛結婚がお見合い結婚より多くなっていく。

 

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出典:国立社会保障・人口問題研究所「第15回出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)」平成27(2015)年
http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou15/gaiyou15html/NFS15G_html06.html

 

これが晩婚化や非婚化、そして少子化の序章なのかもしれない。自分と同じ1970年前後の40代、50世代で独身もめずらしくなくなった。

 

結婚相手を自分で自由に選べる人はいい。しかし、なかには選べない、決められない人もいるだろう。そういう人もお見合いが主流のころは結婚できたし、結婚を後押しされた。現代は「婚活パーティー」「婚活アプリ」「街コン」などの出会いの場もあるが、あれこそ逆に弱肉強食の競争社会らしい。男性は年収で値踏みされ、女性は年齢で切り捨てられる。恐ろしい世界だ・・・

 

*  *  *

 

「結婚も、子どもをもつのも、個人の自由であり選択だ」というのが、いまの社会の常識だ。それに異論はない。一方で子どもをもったら自分で育てろみたいな自己責任論が跋扈する。地域社会や社会生活の中に子どもの存在が切り離されている。だから子どもは保育所や学校の中にどんどんと押し込められて、そこで適応障害を起こせば居場所を失って引きこもるしかない。親も精神的に追い詰められていく。そりゃ大変だよ。

 

日本の社会は、昔より子育てしにくい社会になったと思う。自分が20年前に子育てしていた頃に比べても、この20年間で確実に悪化している。ひと言でいえば、子育てはもっと「大雑把」だった。いまは情報(ネガティブな情報は伝わりやすい)が増えすぎて混乱しているように映る。比較対象がありすぎるのもよくない。

 

だから「結婚はオワコン」とか「子育てとかコスパ悪い」「自分で稼いだお金で一人で自由に暮らしたい」等々、若い世代が思うのも無理はない。

 

自分もいま20代だったらそう思うに違いない。親になって家族のよさに気づくのは四半世紀も経った50歳を過ぎてからだ。

 

積極的に選択したわけではないけど、独り身で年を重ねて40代、50代となったとき、親が年老いてきたり、亡くなったり、親しい友だちと疎遠になって「やっぱり一人は寂しい」と思っても人生をやり直すことはできない、というか生活を変えるのは難しい。

 

自由と選択に自己責任が付随して、なんでも自分で完結しろというのであれば、それはそれで希望のない殺伐とした社会になるし、孤独死していく人が増えていくだけだ。

 

だからこそ、結婚して子どもがいても、結婚していなくても、パートナーを失ったり、別れたりしても、長寿化で長い余生をひとりで送ることになっても、どこかで支え合って生きていける人間関係が基盤の社会にもう一度転換できないものだろうか。

 

昔はよかったと懐古主義になるつもりはない。現代社会の方がよっぽどスマートだし便利だ。ただ、昔の社会システムが現代社会に対応したシステムにアップデートできずにシステム障害を起こしている。亡霊のように社会を支配している古いタイプの政治家や明治以来頑強な仕組みを作ってきた官僚システムが利権を守るために、小手先の対応だけで大きなバグを見て見ぬふりをする(ここにアメリカが絡むからさらにややこしくなる)。

 

ITやSNS、AIなどの情報テクノロジーにその可能性があるとは思うが、生きていくことはリアルだ。仮想現実のなかでは生きられない。ゲームオーバーになる前に、自分たちの子ども、そして孫たちが幸せに暮らしていくために、古いOSを強制終了させて、新しいOSに更新するのが我々世代の最後の務めじゃないかと思っている。じゃないと若い世代が潰れてしまうよ。

 

セカンドステージのライフワークはその辺になりそうだ。小さなアクションでも起こせたらいいな。NPOでもつくるか。

 

だから・・・たいくつな余生はしばらく先に置いておこう(笑)

 

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